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東京地方裁判所 昭和51年(刑わ)1816号 決定

主文

本件公訴を棄却する。

理由

第一、公訴事実

被告人は、いわゆる革マル派に所属する者であるが、ほか数名の者とともに、いわゆる中核派に所属する者らの生命・身体に対し共同して危害を加える目的をもつて、昭和五〇年七月九日午後一時一五分ころ、東京都千代田区紀尾井町七番地上智大学構内において、多数の二段伸縮式鉄棒を所持して集合し、もつて他人の生命・身体に対し共同して害を加える目的をもつて兇器を準備して集合したものである。

第二、検察官、弁護人の主張

一、検察官の主張

後記のように昭和五二年一月六日午後市川市大洲三丁目二一番一号北越製紙株式会社市川工場裏江戸川において発見された水死体(以下死体甲と略称する)は、被告人である。

二、弁護人

右死体甲は被告人とは別人であつて、被告人はいずれかで謀殺され、死体甲とその遺体をすりかえられたものである。

三、双方の主張について

刑事訴訟法三三九条一項四号の被告人の死亡は、死亡の事実が認められれば職権をもつて公訴を棄却すべく、当事者の申立を必要としない。又その死因も問うところではない。死亡そのものが認められればよいのである。今双方の主張を見ると、いずれも被告人の「死亡」については認めており、争つてはいない。したがつて双方の主張自体から被告人は死亡したことが認められるのであるから、本件は前掲法条に基づき、公訴棄却は免れないところである。

ただ、死体甲と被告人との同一性につき、双方の主張が対立しているので、この点について、必要な限度で判断をすることにする。

第三、当裁判所の判断

一、証拠について

前掲法条に基づいてその理由の有無を判断するのは、いわゆる決定手続であつて、口頭弁論を要しない。否被告人の死亡の有無を審理するのであるから口頭弁論を開くことは不可能である。本件の審理は、決定手続でありかつ口頭弁論によらないため、当事者双方及び職権をもつて多数の証拠を得た。決定手続は自由な証明であるところから、訴因の審理と異り、証拠能力による証拠の制限がない。それ故訴因の審理ならば、あるいは証拠能力に問題があると思われるような証拠もないではない(たとえば、弁護人が、談話者の承諾なくかつその事実を知らせずに対話を録音し、その反訳をしたもの、別紙証70、71、72、74、77、など)。しかしながらそれらをも含め、決定手続になつてからの一切の証拠(弁護人は、「参考」ということで多数の冊子及び各種新聞も提出している)、及び本件訴因の審理についての一件記録並びに決定手続の一件記録をもつて、判断することにする。

なお右のうち主なるものを別紙に掲記する。以下別紙の証拠を引用するときは、たとえば「証39」と略称する。

二、死体甲の処理

(一)  別紙掲記の各証拠を綜合すると、次の各事実が認められる。

(二)  認められる事実(後記三ないし六に関する部分を除く)

1 市川警察署員の行動(市川署と略称する)

イ、小学生塚田利幸、同上野鉄也、同手塚宏の三名は、昭和五二年一月六日午後江戸川堤防にて凧上げをしているとき、同日午後一時一五分ころ、江戸川中に「人間の死体のようなもの」を発見し、同日午後一時三〇分ころ市川市の市川警察署市川駅前派出所に赴き、勤務中の星野賢司巡査にその旨を届けた。

ロ、星野は、右子供から大凡のその物体の所在場所を聞き、直に市川署外勤課指令室にその旨を連絡するとともに、子供を現場に連れて行くためのパトカーを要請し、星野は相勤の斎藤隆政巡査とオートバイで現場に急行し、同日午後一時五五分ころ市川市大洲三丁目二一番一号北越製紙株式会社市川工場裏江戸川中の、同工場取水溝の北側のところに浮いている死体を発見した。

ハ、そのとき右死体は、江戸川の左岸から約五メートル水深七〇センチメートルの所に、俯せの状態で浮いていて、肩のあたりと後頭部が水面から出ていた。

ニ、しばらくして竹村巡査がパトカーで前記子供三名を連れて来た。

ホ、市川署では刑事一課長田丸紘一警部の命令で、捜査係長加瀬健一郎警部補、捜査主任伊藤総明巡査部長、同伊藤康正巡査部長、鑑識係安達朝貴巡査、同筒井昌男巡査の五名が二台の乗用車で現場に急行した。

ヘ、右五名は、現場で死体を現認したが、岸辺に引寄せられなかつたところ、たまたま江戸川を小さなエンジン付き舟が通りかかつたので、波を送くつてくれるように頼み、右舟は、川の中央付近を下流から上流、上流から下流に一往復して波を送つて、死体を岸辺に近寄せた。

ト、右加瀬、伊藤康正、安達、筒井の四名に、星野も手伝つてその死体(死体甲)を川岸に引上げた。加瀬の指揮で同日午後二時四五分ころから検死を始めた。

チ、右現場到着から検死の終了まで、写真撮影(写真機は、普通レンズのもの一台、広角レンズのもの一台)は、安達、筒井の両名が当り、記録は伊藤総明が当つた。

リ、加瀬は、一たん電話で田丸に報告し、田丸は市川署刑事官高梨猶三警視と現場に到着した。そのときは死体甲の胸にあるブロツク片をはずすところであつた。以後検死の指揮は田丸がとつた。

ヌ、田丸の命令で福田恵司医師を呼び、同医師は午後三時五〇分ごろ現場に到着し、死体の検案に当り、検死の終了前に帰つた。

ル、検死は午後四時三〇分ころ終了した。

オ、右終了後、右江戸川の堤防上に後記のように市川署からの連絡により、すでに到着していた市川市社会福祉事務所社会係秋本貞治郎に、死体甲を引渡した。

ワ、現実には、これも後記のように連絡を受けて現場に来ていた昭和興業株式会社の社員川上茂男同菅原虎夫に、右川岸の死体のあるところまで(堤防の高さ約一〇メートル、この堤防から約二〇メートル位のところ)柩を持つてこさせ、右二名に警察官が手伝つて死体甲(この段階では着用していた衣服類及び所持品は一切はずされ、丸裸の状態にある。)をビニールに包んで右柩に入れた。

カ、そのとき安達は、右川上に、明日指紋を採取するので棺の蓋を取つておいて欲しい(釘をうたないで欲しい)旨のことを指示した。

ヨ、死体甲は、後記のように、右川岸から市川市営火葬場遺体安置所に運ばれた。

タ、右一月六日には市川署の署員は誰も火葬場にはいつていない。

レ、なお、市川署には、鑑識主任大谷正巡査部長がいるが、大谷は右現場には行つていない(とくに証16)。

ソ、右現場で記録係をした伊藤総明は、市川署に帰つてから、現場でとつたメモ及び一緒に検死に立会つた者に確めて、変死体発見報告書(証39)を、同日午後八時ごろ完成し、それに基づいて、千葉県県警本部に電話にて報告し、かつ死体甲について指示を仰いだ、県警の受信者は当直の玉沢秀清警部補であり、右証39をそのまゝ伝え、玉沢はこれを筆記した(玉沢の作成した変死体発見報告書は証60、右証39と同文内容である。なお右報告が同夜なされたことについて証62)。右報告は同日午後八時三八分終了した。

ツ、伊藤は、右死体甲について、上司の意見をもとに、自殺による死亡と認められ、本籍が明らかでないので、死体取扱規則第九条により処理したい旨の伺いを立てた。

ネ、右伺いに対し、県警本部では小林警部が伺いのとおり処理してよろしい旨を指示し、同日午後八時四五分に玉沢から市川署に電話にて連絡した。同署では当直の谷地巡査(交通課)が受け、伊藤は谷地からそれを聞き、当直主任の石井警部補(防犯課)に報告した。

ナ、又伊藤総明は、上司の命令により死体見分調書(証54)を作成し、市川警察署長は翌七日(書類上は六日)に市川市長宛に、右死体見分調書を添えて死亡報告書(証41)を送付しもつて戸籍法九二条一項、死体取扱規則九条一項の死亡の報告を行つた(なおこの場合、医師の死体検案書の添付は、法令上必要とされていない。この点後述)

ラ、安達、筒井の両名は、火葬場の職員に七日午前九時すぎころ電話にて今から死体甲の指紋を取りに行く旨を知らせ、乗用車にて間もなく右火葬場に到着した。

ム、安達と筒井は、同火葬場の職員川上昭造に遺体安置所の鍵をあけて貰い、同室に入つたところ、新しい柩が一個のみであり、その蓋をとつて中の死体が死体甲であることを確認した。

ウ、安達と筒井は、死体甲からシリコンラバーによつて指紋を採取し、同日午前一一時五〇分ごろ同所を自転車にて引上げた。これは途中で田丸が〓南地区に変死があつて、そちらに行くため乗用車をとりに来たためである(指紋採取については後記三に詳述)。

2 福田恵司医師の行動

イ、右六日午後自宅にいたところ、市川署員から電話にて江戸川で水死体が発見されたので、検死をお願いしたい旨の連絡があり、まもなくパトカーが迎えに来たので、その車にて現場に赴き、同日午後三時五〇分ごろ到着した。福田医師は市川市内で胃腸科外科を開業しており、かつ、千葉県警本部の委嘱により警察医をつとめているものである。

ロ、福田は、先着していた市川署員から状況を聞き、かつ自ら死体を検案した(その状況は後記五)。

ハ、福田は死体甲を入水自殺と検案し、そこに約二〇分ないし約三〇分いて、検死の終了より前に現場を引き上げた。

ニ、同年一月一〇日市川署員が死体検案書をとりに来たので、一月六日付で同書を作成して、同署員に手渡した。

3 市川市役所各係の行動

イ、同年一月六日午後四時ごろ市川署の大谷鑑識主任から、市川市福祉事務所社会係に、北越製紙裏で水死体が上つたが、身元不明であるのでお願いしたい旨の電話があり、同係臨時職員青山重徳が受信した(同事務所は市役所の二階にある)。

ロ、青山は、上司である同係主幹秋本貞治郎に報告した。

ハ、同日午後四時ごろ同所に帰つて来た同係進藤幸男も、青山から同旨のことの報告を受けると、昭和興業株式会社にその旨を伝え、現場まで柩を持つてくるようにと指示した(もつともすでに市川署から連絡がなされていた)。

ニ、又進藤は、市役所保健部施設課に電話にて、身元不明の死体が上つたので、火葬場の遺体安置所におかしてもらいたい旨連絡し、その許可を得た。

ホ、秋本貞治郎は進藤幸男と共に現場に赴き、同日午後四時一〇分すぎころ到着した。しかし両名とも堤防上にいて、死体甲の傍までは行かなかつた。両名が到着したときは、福田医師は来ていた。

ヘ、秋本らの到着後約一〇ないし一五分して、昭和興業の者二名が車で柩を持つて来た。

ト、到着して約二〇分位して、秋本は警察官から身元不明死体として、死体甲の引渡しを受けた。その死体は全裸であり腐乱死体であつた。現実には1のワのように柩に入れ堤防の上のところまで運んだ。

チ、秋本は、昭和興業株式会社の右二名の者に、火葬場の霊安室(遺体安置所)に死体を運ぶように指示した。

リ、秋本と進藤は、右堤防上から市川市南八幡二丁目二〇番市川市営火葬場に赴き、同日午後五時三〇分すぎごろ到着した。昭和興業株式会社の車はすでに到着していた。

ヌ、右昭和興業の者二名は、右火葬場の吏員宮崎菊治に遺体安置所の鍵をあけてもらい、死体甲を収納した柩をそこに安置していた。

ル、進藤は、火葬場の者に、遺体は置いて行くが、書類は明日保健部に出しておく旨及び遺体は日数が経つている旨を告げると、火葬場の者は、じやあ明日ひるから空いているから、明日焼く旨を述べた。

ヲ、翌七日市川署から市川市役所に1のナの報告がなされ、福祉事務所社会係から市民課に対して死体埋火葬の許可を申請し、同課は同日右社会係に対して死体埋火葬許可証を発行したので、同係は保健部施設課にその旨を連絡し、同施設課から右火葬場にその旨の連絡がなされた。証人秋本(証16)及び同福田(証11)の各証言によれば、いかにも医師の死体検案書(又は死亡診断書)がなければ、死体の埋火葬は許可されないように述べているが、いずれも誤りである。昭和四二年国家公安委員会規則第六号による死体取扱規則の一部改正によつて、同規則九条一項は改正され、医師の死体検案書の添付についての規定は削除されているからである。

4 昭和興業株式会社員の行動

イ、同社は、市川市八幡二丁目一番二号に所在し、冠婚葬祭を業としているものである。

ロ、同社営業部に所属し葬儀関係を担当している社員川上茂男は、同月六日午後四時近くころ、会社の事務員から北越製紙裏の江戸川で水死体があがり、身元不明だそうだから行くように言われ、直に同僚の菅原虎夫と柩を自動車(灰色のライトバン)に積み、現場に行つた。菅原は専務に言われ川上に同行した。

ハ、現場に到着して、車を江戸川の堤防上に停めた。そこから検死しているところまで約二、三〇メートル離れていた。

ニ、川上らは、警察官の指示により一旦柩を検死の現場まで運び、再び堤防の上に戻り、又すぐ来るように指示されて今度は死体甲のところに行き、警察官に手伝つてもらつて死体甲を柩に納めた。そのとき死体甲は全裸であり、それをビニールに包んで入れたものである。

ホ、その際川上は、警察官から明日指紋を採りにゆくから釘を打たないで欲しい旨のことを言われ、了承した。

ヘ、川上と菅原は、死体甲を納めた柩を堤防の上に停めていたライトバンに乗せた。

ト、その場に来ていた市役所の人(秋本)から、身元不明だからとりあえず火葬場の安置所のほうに運んで欲しいと指示された。

チ、そこで川上と菅原は、その場から直接市営火葬場に死体甲を収納している柩を運んだ。到着したのは同日午後五時二、三〇分ころである(証8の時間に関する証言は措信できない。)途中死体の臭いが強いので窓をあけて運転した。

リ、到着すると、火葬場の吏員の宮崎が死体安置所の鍵をあけてくれたので、右の柩をその中に運び入れた。中には別の柩や死体はなく、死体甲を収納した右柩一個のみであつた。運び入れたのは、川上と菅原の二名だけによる。

ヌ、前記ホのように警察官に言われていたので、柩の蓋をはずした。

ル、右のように柩を安置すると、安置所の出入口の鍵を宮崎が閉めた。

ヲ、なお秋本は、現場に右会社の社長松丸幸一が車を運転して来ていたかの如き証言(証16、19)をしているが、人違いか記憶違いかであろう、松丸が川上らと行動を共にしていた旨のことは認められない。

5 火葬場の吏員らの行動

イ、前記火葬場の吏員で、その管理や葬具の整備を担当しており、かつ火葬場の管理事務所に住んでいる宮崎菊治は、同月六日午後四時すぎから午後五時ごろまでの間に、市役所施設課から電話で、身元不明の死体が江戸川で発見されたので遺体安置所で預つて欲しい旨の連絡を受けた。

ロ、六日の日は、午後四時ごろまでに五体の遺体を火葬に付し、すべて遺族に引渡しを了わつており、それ以後右火葬場の敷地内及び遺体安置所の中には一体の遺体もなかつた。

ハ、右施設課から連絡のあつた身元不明の死体は、同日午後五時二、三〇分ころ昭和興業のライトバンで運ばれてきた。運んで来たのは川上茂男と菅原である。

ニ、宮崎は、遺体安置所の鍵を開けると、川上と菅原はライトバンから柩を降ろして、その中に運び込み、中に安置した。そこで宮崎はすぐ右安置所の鍵をかけた。

ホ、この遺体安置所は、火葬場の管理事務所内の休憩室の前にあり、宮崎はこの休憩室で寝泊りしているものである。

ヘ、右遺体安置所の鍵は二個しかなく、一個は宮崎が、他の一個は同じく火葬場の職員の川上昭造がそれぞれ預つている。

ト、宮崎が前記ニのように安置所の出入口の扉に鍵をかけてから、翌七日後記ヌのように川上が右鍵をあけるまで、右安置所の出入口の扉は一度も開閉されなかつた。

チ、翌七日午前九時すぎころ、右川上昭造は市川警察署の警察官から電話にて、今から死体(前日預つた水死体で安置所に安置してあることは、同日朝川上は宮崎から聞いて知つている)の指紋を取りに行く旨の連絡を受けた。

リ、同日午前九時ごろ、右電話から間もなくして警察官が二名きた。

ヌ、右川上は自己の机の抽出しから鍵を出して、遺体安置所の扉の鍵を開いた。中には新しい柩が一個あるのみであつた。

ル、右警察官について安置所に入つた宮崎は、古い死体特有の臭いがこもつているのを嗅ぎ、柩の蓋を取つたところをのぞき込むと、死体は裸体であつた。

ヲ、右警察官二名は、安置所の中で死体の腕を持つたり、黒いねば〓したものをこね合わせ指紋云々といつていた。

ワ、宮崎が〓南病院から死体を引きとつて同日午前一一時三〇分ころ戻つて来て、その死体を右安置所に入れようとしたが、警察官らはまだ指紋を採り続けているので、その死体が入れられず外で待つていた。

カ、同日午前一二時少し前に、右警察官らは指紋を採り了わつたので、宮崎らは右〓南病院から運んで来た死体を右安置所に安置した。

ヨ、右火葬場では、市川市役所保健部施設課の主任の与田某から右水死体の埋火葬許可の連絡を受けていたので、午後二時三〇分少し前ころ窯が空いたところで、川上昭造及び同僚の宮崎、大和久某、宮城某の四名で、右水死体(死体甲)の入つている柩を窯まで運んだ。その際腐敗しているようなひどい悪臭がした。

タ、同日午後二時三〇分ころ右柩を窯に入れ、灯油で火葬し、午後三時五〇分ころあがつたので、川上昭造と宮崎の両名で骨揚げをしてかめに納め、窯場の隣りの部屋に安置しておいた。証19によれば同日午後〇時三〇分荼毘に付した旨の記載があるが、証148(死体埋火葬許可証)によれば、市川市営火葬場の管理者矢野忍の記名押印をもつて、一月七日一六時火葬執行済の記載があるので、証19は誤りである。

(三)  判断

以上1ないし5の各事実を総合すると、昭和五二年一月六日午後一時一五分前記小学生三名によつて発見された死体甲は、市川警察署の署員によつて江戸川の川岸に引き上げられ、その場で検死(見分)され、又同所で福田医師によつて検案され、それらの終了後、その現場で市川市役所に引渡され、その現場から同市営の火葬場に昭和興業株式会社(葬儀を営業の一部としている)の社員二名によつて、柩に収納されてライトバンで運ばれ、同場遺体安置所にその日は安置されたこと。及び翌七日午前九時すぎごろ市川警察署の鑑識係の安達、筒井の両巡査は、右火葬場に赴き、同場遺体安置所に、柩に入れて安置してある全裸の死体が、前日右両名らが江戸川から引き上げた死体甲であることを確認し、その両手からシリコンラバーにて指紋を採取したこと。同日午後二時三〇分から死体甲は火葬に付されたこと。を認めることができる。したがつて以上の経過に徴し、安達、筒井の両名が右安置所で指紋を採取するまでに、右死体甲が他の死体と入れ替わるとか、すり替えられるとか、他の死体と混同されるような状況は全くなかつたことが認められるのである。

三  死体甲の指紋と被告人の指紋の一致

(一)  死体甲からの指紋の採取

1 一月六日江戸川岸の前記現場(証2、4、5、34、35、44)

イ、安達と筒井の両鑑識係は前記死体甲の検死現場において、検死の終りごろに、黒インクを使用して死体甲の両手から指紋採取しようとした。

ロ、ところが、死体甲の左手は漂母皮化したうえ表皮が剥離していて、脂肪分(体液)が出ていて黒インクがのらず、同右手は黒皮手袋をはめていたが、安達がこれをはずすと、黒く着色していたので水洗いをしたが、漂母皮化していて指の面は凹凸になつていて(ふやけていて)、黒インクはその出ているところはのつたものの、両手の指とも採取することが不可能であることが明らかであつたので、指紋用紙に押す前に、採取を中止した。

ハ、その時刻はすでに右川岸はうす暗く、又死体甲をこれから運ぶ火葬場の遺体安置所も夜はうす暗いところであるので、右両名はその日は指紋を採取することを中止し、明朝右指が乾燥したところで、シリコンラバーにて採取することを相談した。

ニ、安達は、右現場にて田丸課長に、今日とれないから明日採取する旨を報告したところ、田丸はそのことを了承した。

ホ、そこで安達は、柩に死体甲を収納して運んでいる川上茂男に、明日指紋を採取するので棺の蓋を取つておいて欲しい旨を指示した。

2 一月七日前記遺体安置所(証4、5、44、112ないし127)

イ、安達と筒井は、前記のように電話して(5のチ)、一月七日午前九時二〇分ごろ前記火葬場に自動車で行つた。

ロ、右遺体安置所に安置してある柩の中の死体が死体甲であることを確認した。

ハ、右安置所は、畳三畳よりやや広く出入口は一つであり、扉は観音開きになつており、昼間は明るい。なお火葬場事務所からは約一〇メートル位離れているが、煙突があつて事務所からは見えない。自動車は安置所の前においた。

ニ、安達と筒井は、準備などの後午前九時四〇分ごろから現実に死体甲からの指紋採取の作業を開始した。作業は扉を開けたまゝ行つた。

ホ、先ず、出来れば指紋用黒インクで採取できればその方がよいと思い、死体甲の右左の手をアルコール及びクリーナーで拭いて、先に右手の指に黒インクを塗つたが、インクがのらず、成功しそうにないので、黒インクで採取することは止めた。漂母皮化していたからだつた。

ヘ、そこで右両名は、シリコンラバーにて指紋を採取することにし、最初に右手の各指からとることにした。

ト、安達に電話がかかつてきて、安達は火葬場の事務所へ行つた(離れていたのは五ないし一〇分位)。筒井は立入禁止の札をビニールで覆つた板を台にして、シリコンラバーとカタリストを調合した。安達が帰つて来る前に一人で死体甲の右手の各指にその調合したシリコンラバーを塗りはじめた。

チ、その方法は、死体甲の右腕を柩と胸の間に挾んで指先を浮かせ、手の甲を上にしたまゝ指先からシリコンラバーを塗つた。その途中で安達が帰つて来たので、以後は二人で作業した。

リ、塗るときは、親指を除く他の四指を一ぺんに塗り、そのあとで親指に塗つた。塗り方として筒井は前記ビニール板にシリコンラバーを付けたまゝ、それを右手指に付けることもした。又右板の角も使つた。その中指と示指は第一関節と第二関節の中間位まで塗つた。

ヌ、約二〇ないし約三〇分後、右のシリコンラバーを指からはずしてみると、水分と気泡が入つていて指紋部分で出ていないところがあり失敗した。

ル、今度は安達がシリコンラバーとカタリストを調合して、死体甲の左手の各指に塗つた。安達の塗り方は、手のひらを一旦上に向けて、シリコンラバーがどろ〓しているので、指に塗つて若干こすり浸透をよくし、ある程度固まつたら、手を逆にするという方法だつた。

ヲ、左手の場合も、親指を除く他の四指は全部くつついたまゝ一緒に塗つた。その後で親指に塗つた。このときも前記のビニール板の角でなかまでシリコンラバーが入るようにした。

ワ、又約二〇ないし三〇分間シリコンラバーが固まるのを待つて、指からはずしてみると示指を除いて成功した。示指は指紋の側に気泡が入つたりして失敗した。

カ、そこで安達は、失敗した右手の各指と左手の示指を再度採取するため、シリコンラバーを調合し、右手については、やはり親指を除いた他の四指は全部くつついたまゝ塗り、右手親指に次に塗り、次いで左手示指に塗つた。

ヨ、又、シリコンラバーが固まるまで待つて、指からはずした。

タ、筒井は、あらかじめ準備していた茶封筒に採取したシリコンラバーを入れた。ただしその場ではつながつているものは切断せずに、ただ左手と右手とは区別して茶封筒に入れた。

レ、同日午前一一時五〇分ごろ指紋採取を終了し、右両名は市川警察署に帰つた。

(二)  採取したシリコンラバーによる死体甲の指紋の処置(証拠は前掲のほか証45、58、7)

1 市川警察署

イ、筒井は、持ち帰つたシリコンラバーを一旦ロツカーに入れて食事に行き、同日午後整理した(以下「シリコンラバーによる死体甲の指紋」を単に「シリコンラバー」と略称する)。

ロ、筒井は、右採取して来たシリコンラバーの四指つながつているものは、鋏でばらばらに切断し、あらかじめ各指の名称が一本ずつ記入されている茶封筒に、それぞれ該当のシリコンラバーを入れた。ただし右手の各指分及び左手の示指分については、成功した分と失敗した分とそれぞれ二個ずつ同じ封筒に入れた。そしておちないようにマツクスで口を止めた。

ハ、それらを鑑識専用のロツカーの中の筒井しかわからない所に保管した。このロツカーは鍵がかかるし、その鍵の在り場所は他の者にはわからない。

ニ、翌八日朝筒井は右ロツカーから右茶封筒を取り出した。そのとき見ると、前日筒井が入れたまゝの状態であつたので、誰も触れていないことが確認できた。

ホ、右茶封筒は他の送致物件と一緒に段ボールの箱に入れ、同日午前九時三〇分すぎころ、石井憲一巡査長と二人で千葉県警本部に出発した。

ヘ、持つて行つたのは、茶封筒は一〇個、シリコンラバーは合計一六個である。

2 千葉県県警本部

イ、右八日筒井は千葉県の県警本部に到り、同本部刑事部鑑識課の技術吏員小石佳彦に会い、持参した前記シリコンラバー合計一六個の入つた茶封筒一〇個を手渡した。

ロ、小石は筒井の前で、一〇個の茶封筒を順次開いて在中のシリコンラバーを確認して又それぞれ元の茶封筒に入れ、合計一六個の個数をも確認してこれを受取つた。

ハ、これら一六個のシリコンラバーは右茶封筒にそれぞれ入れられており、小石が後記のように指紋照合に使用した後も、県警本部の鑑識課に保管されていたが、当裁判所の提出命令により、昭和五二年二月九日に県警本部刑事部鑑識課長青山信次名をもつて、右シリコンラバー一六個及び後記のストリツパブルペイント一六個と共に当裁判所に提出され、当裁判所は同日これらを領置した(証112ないし143)。

(三)  シリコンラバーによる死体甲の指紋と被告人の指紋の一致(前(二)のほか証128ないし143)

イ、シリコンラバーから指紋を検出するには、シリコンラバーにストリツパブルペイント(樹脂状の液体)を塗る、それが一時間ないし一時間三〇分位すると乾いて固型となる、それをはがして取り出し、今度はそのストリツパブルペイントによる指紋の型を自己の指にはめて、それに指紋用黒インクを塗り、それを指紋用紙に押捺して指紋を検出する方法による。

ロ、小石は右八日に筒井からシリコンラバー一六個を受取り、一三日にストリツパブルペイントによる指紋を採つた。それは左右の一〇指全部についてとつた。

ハ、その対照指紋が誰の指紋と一致するかについての照合には、採つた指紋に分類番号を付し、指紋が悪い場合には副番号を付する、それを同一のものを発見するまで保管の指紋台帳と照合する方法による。

ニ、千葉県の県警本部刑事部鑑識課には一五万人分の指紋台帳が保管されているが、この中には昭和四六年七月六日兇器準備集合罪により成田警察署に逮捕された際に作成された被告人の指紋票(台帳)も含まれている(証63の鑑定資料(2))。

ホ、小石は同月一四日から照合をはじめ、同月一七日に前記ストリツパブルペイントによる指紋が被告人の指紋と、左小指について一二点以上、他の九指についても数個所かあるいは二ないし三個所の一致点があること(対照指紋が不鮮明のためそれ以上は困難。ただし違つた点はない)を認定できたので、前記ストリツパブルペイントによる指紋は被告人の指紋と一致すると判定した(証47、63及び証7)。

ヘ、そこで小石は右七日上司の決裁を受け、同日午後二時五分市川署の大谷に電話で照会にかかる死体甲は被告人であることを連絡した(証45ないし46)。

ト、なお本件の事実取調に入つてから提出された東京地方検察庁採証課長小泉緑郎の対照によつても死体甲と被告人の指紋が一致することが認められる(証56)。この対照に用いられたものは、前記ストリツパブルペイントによる指紋と、昭和四七年九月二五日横浜地方検察庁で採取された被告人の指紋である。

(四)  牧野内鑑定書の信用性について

1 弁護人の主張

弁護人は小石が指紋照合に使用したシリコンラバー(証112ないし127)は、一月七日安達と筒井が死体甲から採取したシリコンラバーと異ると主張し、それに沿う牧野内昭武の鑑定書(証79)を提出した。

よつてその信用性について検討する。

2 牧野内鑑定の前提について

イ、同鑑定書によれば、安達及び筒井の証言のようにシリコンラバーを使用するならば、(1)親指を除く他の四指については、右手一回目二回目、左手一回目のそれぞれ隣り合う指同しの側に切口が存する。(2)この切口は合致する。(3)各指の手のひらの側にはシリコンラバーを固化させる時あてたビニールカバーの跡がある。

右のことを前提として立論をしている。

ロ、しかしながら安達及び筒井の証言(証4、5)によれば、すでに認定したように、筒井は採取したシリコンラバーをばら〓にするために鋏で切断したと述べているだけであるから、右(1)は認められるとしても右(2)の結論は直ちに出てこない(証7の小石も隣り同し切口が一致すべきであるとは述べていない。むしろ一致しない場合のあることを肯定している)。又筒井はシリコンラバーを各指に塗るとき(はつきりしているのは右手一回目と左手一回目のみ、右手二回目については言及されていない)、シリコンラバーを調合したビニールで覆つた板を使用した旨のことは証言しているが、その全証言をもつてしても前記イの(3)が認められるような証言は見当らないし、又そのことを推測できる証言もしていない(証5)。安達は、その証言において右ビニール板については、全く証言していないし、弁護人も尋問していない。以上の点からするならば、右イの(2)、(3)を前提とすることにすでに疑問がある。

もつとも鑑定書は、(2)について隣り同しを二度切断すれば切口が一致しなくても可能であるが、その実験によれば、その必要性は見い出せないとし、右(2)の前提の合理性を主張している。しかしながら、その必要性を判断するのは、シリコンラバーをもつて指紋を採取し、それから指紋を検出する者らであつて実験者ではない。筒井、安達、小石の各証言中に、右主張を肯定するに足りる部分は存しない。したがつて右のような主張も(2)の前提を正当化するものではない(切口が一部一致するにかかわらず、なおその他に切断面が存するものがあることについて3、ロ、Ab)。

3 シリコンラバーの切断面の有無とその一致について

イ 左手のシリコンラバー(証112ないし証117)

A 右証112ないし証117を仔細に検討すると次の事実が認められる。

a 拇指(証117)と示指一個(証113、符34)には切断面がない。

b 示指一個(証112、符33)の中指側には切断面がある。中指(証114、符35)の示指側には切断面があり、右示指の切断面と一致する。環指側には不規則な切断面が存する。環指(証115、符36)の中指側には不規則な切断面とやや規則的な切断面があり、小指側には気泡のあとと思われる小穴三個の存する切断面がある。小指(証116、符37)の環指側には気泡のあとと思われる小穴三個の存する切断面があり、右環指の小指側の切断面と形状及び気泡の位置が完全に一致する。

B そうだとすると、前記(一)(二)の各事実と右Aの各事実からするならば、証112、114、115、116の各シリコンラバーは、安達と筒井が前記死体甲から前記遺体安置所において、四本一緒に採取した左手の示指、中指、環指、小指の各シリコンラバーであることは明らかである。

C 右切断面の有無及びその一致の有無については、当裁判所に現物が領置されており、かつそれらを仔細に検討する機会を有しているのであるから、あえてそのための証言を必要とするものではない。したがつて、右Bに反する小石の証言(証7)及び右鑑定書の記載は信用できない。

D なお右鑑定では、証113(符34)を失敗分、証112(符33)を成功分であることを前提とし、証112と証114の中指は絶対つながらない旨述べている。

しかしながら右証112と証113のいずれが成功分であり失敗分であるかについては、小石が証言(証7)しているのみであつて、その判定が安達や筒井が失敗したからもう一度左示指だけを採りなおそうと考えたときの失敗、成功と一致しているかどうか不明である(安達も筒井も証112と証113については、現物を見た上での証言はしていない)。したがつて小石の証言を前提としての証113と証114のつながりの否定は、前提を欠く。のみならず、証112と証114の切断面が完全に一致しており(このことは鑑定書も認めている)、かつ証113には切断面が全くないことは、安達と筒井の、左手は一度で成功したが示指だけは失敗したので、右手の二回目のあとで左手の示指だけ採り直した旨の証言を充分裏付けるものというべきである。

E さらに鑑定書では、証112が失敗分であつて証113が成功分だとしても、安達らが失敗したと感じたのは気泡が入つたからだと述べているところ、証113の方に指先に大きく二個所空気が入つたためと思われる指紋のとれていないところがあるから、やはり証113が失敗分であり証112が成功分であると主張して、右Dの主張の前提としている。

しかしながら、成功分と失敗分の判断を論者が行つてみても、そのことを安達と筒井とがその結論と同じ結論によつて一月七日に遺体安置所で行動したかどうかについては、全く不明であり、むしろ右両名は証112を失敗分、証113を成功分としていたというべきである。すなわち、証112と証113とを仔細に検討すると、証112の指紋相当部分には、その中央に広げると約二ミリメートル×約四ミリメートルの気泡のあとがあり、その周辺にも少くとも三ないし四の小さな気泡のあとが認められるに対して、証113は指紋中央部には気泡のあとはなく、やや指先右よりに約二ミリメートル×約一ミリメートルの気泡の穴があるにすぎない(鑑定書では指先にある二個の表面の滑めらかな部分を気泡によると見ているが、これは明らかに気泡のあとではない)。このことは正に鑑定書が引用している安達の証言どおりであつて、証112は気泡が入つて失敗したと感じたからこそ、あとで証113を一本だけ採り直していると認められるからである。

ロ、右手のシリコンラバー(証118ないし証127)

A 証118ないし証127を仔細に検討すると次の事実が認められる。

a まず、右手の各指について各二個ずつシリコンラバーがあるが、証121(符42)が証120(符41)に対して失敗分であることが安達の証言(証4)でわかる(小石は証120のほうを失敗分とみている)ほかは、採取の当時安達と筒井がどちらを失敗分としたかについては不明である。小石は証119(符40、示指)証121(符42、中指)、証122(符43、環指)をそれぞれ成功分とみているのであるが(証7)、証121について安達と異る見解であることが明らかな以上、証119証122についての右小石の証言も、当時安達らがとつた見解と同じであると推測することはできない。

b 示指(証118、符39)の中指側には切断面がある。もう一の示指(証119、符40)の中指側には切断面らしきものが僅かに見えるが不明である。中指(証120、符41)の示指側、環指側ともに明瞭に切断面が存する。ただし示指側の切断面は証118証119のそれと一致しない。もう一つの中指(証121、符42)の示指側には切断面はなく、指先の部分に僅かにそれらしきものが見れる。環指側には明瞭に切断面が存する。ただし右指先の部分は証118証119と一致しない。環指(証122、符43)は、中指側小指側ともに明瞭に切断面が存する。この環指の中指側の切断面は、証121の環指側の切断面とその形状や気泡の位置が完全に一致する。したがつて証121と証122とはつながつていたことが明らかである。もう一つの環指(証123、符44)の中指側、小指側にともに明瞭に切断面が存する。ただし証120の環指側の切断面と証123の同じ側の切断面は一致しない。小指(証124、符45)の環指側には明瞭に存する。かつこの切断面は縦三・〇センチメートル×横約一・三センチメートルに亘り削りとられたような形状をなしているが、その頂先の部分(指先左側辺り)の形状と、証122の小指側切断面の上部(爪の基部の右横辺り)の形状、及びそれぞれに存する二個の気泡の位置は、完全に一致する。かつその一致する部分を合わせてみると、その余の双方の切断面に隙間が生ずる。この隙間の部分は削りとられていることが明らかに認められる。もう一つの小指(証125、符46)の環指側には明瞭に切断面が存するが、証123のそれとは一致しない。

B 小石は各シリコンラバーの切断面がないことにつき(証120、121、122、124)、又一致することにつき(証120と証123、証123と証125)それぞれ証言しているが(証7)、右Aの各認定と対比して誤りであるといわなければならない。

C 鑑定書では、切断面が一致するものは一つもないというが、右認定のように証121と証122と証124とは順次切断面が一致しているから右見解は誤りである(なお鑑定書では証124と証125が入れ違いになっている)。

また証123の切断面は「手のひら側」にあるので、証120と証123とは双方に切断面があつても、つながつていたとは考えられないと言う。しかしながら証123の中指に近い方の切断面は、手のひら側ではなく明らかに中指側にある。かつ証120を中指に、証123を環指に装着して、それぞれ指を曲げてみると、双方の切断面は一致しないまでも相接することが認められる。したがつて鑑定書のこの点の見解も誤りである。

又証118と証120のそれぞれの切断面、及び証123と証125のそれぞれの切断面も、それぞれを所定の指に装着して、指を曲げて見ると、それぞれの切断面は一致しないまでも相接することが認められるし、証121と証122においては切断面が一致することは前記認定のとおりである。したがつて、右三つの関係がつながつていたとするのはかなり無理があるとする鑑定書の見解は採用できない。

D 以上の認定からするならば、証119、121、122、124の四指は同時に採取されたものであり、かつ証121、122、124の三指分は連続していたことが明らかであり(証119と証121は双方に切断面らしきものが僅かに存していて不明というほかはないのであるが、むしろ双方ともそのような形状であることはかえつて同時に採取されたことの証左となる)、又安達は証121に見憶えがあつてそれが失敗分であることを証言している(証4)ことからするならば、この証119、121、122、124は安達と筒井が前記遺体安置所において、死体甲から採取した右手の拇指を除く四指の失敗分(第一回分)だということができる。したがつて証118、120、123、125は安達と筒井の証言のように四指連続していたものと認められ、かつこれは第二回目分であることが認められる。

4 ビニール板の跡の付着について

イ、鑑定書では証114、115、116には平板をあてて固化させた跡があり、それはビニール板を当てたとて固化させたものであれば、三指にみえる模様の方向が一定していないので、証言の採取方法と異ると主張するが、すでに述べたように、シリコンラバーが固化する間、ビニール板でおさえて固定していた旨の筒井の証言はないし、そのように読めるところもない。したがつてビニール板の跡が必らずついていることを前提とする立論は信用できない。なお鑑定書も認めているように、右証114,115、116についている繊維状の凹凸のある部分が、筒井が使用したというビニール板による跡であるかどうか不明というより、異ると推測すべきである。なぜならば立入禁止の札を覆つた程度の普通のビニール紙に、このような細い繊維状の凹凸の模様が存する用紙を使用することの方が少いからであるし、筒井はその点について全く言及していないからである。したがつて右三指のシリコンラバーに見える模様の方向が一定していないことを前提とする立論は採用できない。

ロ、又、筒井の証言の方法だと、シリコンラバーの各指の手のひら側には、ビニールカバーをあてた跡が存する筈であるのに、証112ないし証127のシリコンラバーにはそれがないから、別物であると主張するが、ビニール板の跡なるものがどういうものかわからず、かつその跡がつく程にあて続けていた旨の事実もない以上、この鑑定の見解も前提を欠き、採用の限りでない。

5 左手のシリコンラバーの長さについて

イ、鑑定書は、筒井の証言から、「左手は手袋状に深くすり込んだ」旨の見解をとり、実際の証112ないし117は、右手の失敗分より短いから、筒井の証言と実際のシリコンラバーとは矛盾しているとのことを主張している。

ロ、しかしながら筒井の証言で左手につき「手袋」云々が出てくるのは、シリコンラバーの二回目の調合のときに「一回目に失敗したから、今度は手の甲のほうも全部はめ込もうかというので、手袋はめるような感じで量を少し多めにやりました」という証言一個所であつて、この証言は塗り方についての証言ではなく、シリコンラバーの分量を多くするについての表現にすぎず、かつ指のどの部分までという長さの証言はこの段階ではないのであるから、鑑定書のような見解は右の証言からはみちびき出せない、右手の第二回目について、「問、手袋みたいにはしなかつたということですか。答、そうです」という問答が筒井の証言にあるが、これを反語的に左手は手袋みたいにしたという結論をとることは早計であるし、これをもつて塗つた長さは出てこない。塗つた長さについては、「問、左手の場合、手の平の方の第二関節くらいから、ずつと指の頭を通つて手の甲の第二関節くらいまで被せたのは間違いないですか。答、第二関節の手前ですね」との筒井証人の問答がある。これからするならば、長いといつても第二関節の手前まで位の長さであつたことが認められる。この程度では「深くすり込んだ」ことにはならない。

そこで左手のシリコンラバーを検討すると、証112(失敗分)の手の平側は、第一関節の一寸下までの長さがあり、手の甲側は切断されていて不明である。証114の手の平側は、第二関節の一寸手前までの長さがあり、手の甲側は切断されていて不明である。証115の手の平側は存在する部分だけで第二関節まであり、かつ切断面がある。手の甲側は切断されていて不明である。証116の手の平側は第一関節の一寸下までの長さがあり、手の甲側は切断されていて不明である。

以上の対比からするならば、筒井の証言によるシリコンラバーと証112、114ないし証116のシリコンラバーが別物であるとするわけにはいかない。鑑定書の右見解は採用できない。

ハ、なお、鑑定書は、そのように採取された左手分であるならば、右手の失敗分より長いはずであるのに、証113(鑑定書はこれを失敗分に見ている。その見解が誤りであることは、すでに述べたとおりである)、証114ないし証116は、右手の失敗分である証118、120、123、124(鑑定書は証124と証125を取り違えている)よりいずれも短いのであるから、筒井の証言によるものと証113、114ないし証116は別の物であるという見解をとつている。

しかしながら筒井と安達が右手第一回目にとつたいわゆる失敗分は、すでに述べたように証119、121、122、124であつて、証118、120、123、125(鑑定書はこれを引くべきであつた)は第二回目の採取である。したがつて、鑑定書の見解は、前提においてすでに誤つている。

6 以上述べたところから明らかなように、牧野内鑑定書は、その前提においても、証112ないし証127の現存する一六個のシリコンラバーの認識においても、又筒井の証言の認定においても、それらの立論においても、疑問とすべき点が多く、これをもつて安達と筒井の採取した一六個のシリコンラバーと、当裁判所が領置している証112ないし証127の一六個のシリコンラバーが別物であるとのことは、なんら立証されないというべく、前記(一)ないし(三)において認定したところの死体甲の指紋と被告人の指紋は一致することの反証とはならないといわなければならない。

(五)死体甲と被告人の同一性

1 第三の一及び二の(一)ないし(四)において詳細に判示したように、昭和五二年一月六日午後前記江戸川に浮んでいて川岸に引き上げられた死体甲は、大勢のそれぞれの関係者の手を経て、同日夜は前記市川市営火葬場の遺体安置所に安置され、翌七日午前中同所において安達と筒井は、シリコンラバーにより右死体甲から(この段階で死体甲が被告人の死体と入れ替つたとする可能性は全くない。弁護人らがそのことをも前提とするならば、牧野内鑑定書を提出したことは、明らかに矛盾した主張立証をしたことになる)、右手から五指分、左手から五指分、さらに右手から五指分、左手示指分の合計一六個の指紋の指型を採取し、同日夜これらを市川警察署刑事課鑑識係のロツカーに保管し、翌八日午前筒井と石井が千葉県県警察本部刑事部鑑識課の小石に直接手渡をし、小石において右一六個のシリコンラバーの指紋型からストリツパブルペイントにより指紋の型を採り、死体甲の指紋を検出し、それと被告人の指紋票(台紙)と照合したところ、左小指について一二点以上、その他の指紋についても数点又は二ないし三点の合致点を見出すことができたので、被告人の指紋と死体甲の指紋は一致すると認めたものである。

右経過と指紋の一致、及び指紋の一致による人物の同一性の認定についての絶対的ともいえる高度の確率性からするならば、爾余の判断をするまでもなく、死体甲は被告人であると断定することができるというべきである。

2 次に、一つの仮説について言及する。仮りに証112ないし証127のシリコンラバーが死体甲ではない被告人から採取したものとする。この場合小石の鑑定からするならば、一六個全部被告人の一〇指と、一、二点、数点又は二、三点の一致点があつて、異つたのはなかつたのであるから、被告人から一六個やはり採取していなければならないはずである。かつそれらの実物から明らかなように、右手については漂母皮化による凹凸が激しく、左手については気泡が入るとか脂肪分又は体液などの浸出(表皮が剥離している)があることが認められるから、被告人から採取するときも、被告人の左右の手指はそのような状態になつていなければならないはずである。

一方、安達と筒井の死体甲からのシリコンラバーによる指紋採取に関する証言は、詳細を極めており、かつ証112ないし証127の具体的実情に則していることは、すでに認定したとおりである。すなわち証112ないし証127を実際に採取した者でなくては到底知りえない具体的かつ事実に合致した証言をしている。そうだとするならば、安達と筒井が被告人から採取したであろうとの仮説がなり立つ。この仮設に立つならば、安達と筒井は被告人(前記左右の手の状況からするならば、その段階で、すでに被告人は死んでいなければならない)を見ているということになる。この仮説は後述するように重要である。

前記一月七日午前中には前記遺体安置所には死体甲一体しかなかつた。かつ安達と筒井が死体甲からシリコンラバーで指紋を採取したことも動かせない事実である。しかも午前九時すぎごろ二人で来て午前一二時ごろ去つたこと、その間死体の手を上げたりしていたこと、黒いねば〓したものをこね合わせて指紋云々と云つていたことなど火葬場の連中が見ている。安達と筒井はここで採取したのは明らかに死体甲からであつて、仮説の被告人からの採取は、別の場所ということになる。翌八日には県警本部に持参しているのであるから、すでにこの段階ではその採取は終つていなければならない。又前六日午後には江戸川から死体甲を引き上げているのであるから、少くともその前に被告人の死体からのシリコンラバーによる指紋採取は終了して、安達と筒井とは死体甲の検死に臨んだとみるべきである。すなわち、右両名は被告人の指紋や特徴を知つており、かつ死体甲の身代りも知つていたことになる。

にもかかわらず、安達と筒井とは、相当な時間をかけて、シリコンラバーによつて死体甲から指紋を採取した。もし死体甲をもつて被告人とすりかえるのであれば、すでに仮説においては被告人から指紋を採取しているのであるから、又すりかえる以上死体甲を生前

より何者であるかを知つていたと見るべきであるから、安達と筒井は全く無駄なことをしたことになる。たんに他者の眼をごまかすためにしては念が入りすぎている。前記(一)ないし(三)において認定した各事実からするならば、江戸川から死体甲が上つて以後、右遺体安置所においてシリコンラバーによる指紋採取に至る一連の経過において、この死体甲から指紋を採取する必要性とその行動について、安達と筒井及びその他の関係者の言動には微塵の不自然さも見られない。安達と筒井は、再び死体甲から苦心して被告人と同じ一六個のシリコンラバーを作成したというのであろうか。ここにこの仮説の重大な欠陥がある。なおこの仮説の不自然性については後述する。

3 右仮説が完全に成り立ないことについては右のほかなお後述するとして、指紋の照合により死体甲は被告人であることが認定できた。指紋の一致による人物の同一性の認定は、いかなる反証をも許さない程、高度の確率性を有することは、経験則上公知の事実である。極論するならば、首なし死体であつても指紋が一致する以上、同一人物と認定するのに何ら差支えないものである。

ただ本件においては、弁護人においてなお主張する点があるので、それらの点について、簡単に説示することにする。

四、死体甲の着衣及び所持品

(一)  死体甲が着用していた衣服類

1 証4、5、32、35、39、53、61によれば、死体甲は、次の衣服類を着用していたことが認められる。

〈1〉濃紺のコート(証86はその断片、以下同じ)、〈2〉グレーの背広上下(証87、88)、〈3〉黒色毛糸のチヨツキ(証89)、〈4〉クリーム色地クサリ模様入りの長袖シヤツ(証90)、〈5〉白メリヤス半袖シヤツ(証92)、〈6〉白メリヤス七分ももひき(証93)、〈7〉白色パンツ(証94)、〈8〉茶色短靴(二五センチメートル、証96)、〈9〉黒色靴下(証95)、〈10〉右手に黒色皮手袋

2 被告人の母である水本よ志(証12)、その弟である水本努(証13)の各証言によれば、右〈1〉ないし〈9〉は、すべて被告人の所有であり着用していたものであることが認められる。

(二)  死体甲が身につけていた所持品

1 前掲(一)の1掲記の証拠によれば、死体甲が衣服類の中に所持していたもの、及び身につけていた所持品は、次のとおりである。

〈11〉左手首にセイコー製時計(証105)、〈12〉コート外側右ポケット内に、紺地にオレンジ色格子模様のネクタイ(証91)、〈13〉背広外側左胸ポケット内に、茶色のくし在中の黒色ビニール製くし込れ(証108、109)、〈14〉同所に茶色ビニール表紙メモ帳一冊(証107)、〈15〉背広外側左ポケット内に、オレンジ色ガスライター一個(証106)、〈16〉同所に鍵一個(証111)、〈17〉背広左側内ポケットに黒皮二ツ折り定期入一個(証103)、〈18〉その中に地下鉄路線図一枚(証104)、〈19〉同じくその中に合計六三一五円の現金(証97ないし証102)、〈20〉同じくその中に白ボールペン一本(証110)

2 証12によれば、右のうち〈11〉(友人のものを借りて使用)、〈12〉、〈13〉、〈14〉、〈17〉、〈18〉は被告人の所持していたものであることが認められる。

(三)  判断

右のように被告人の母は、死体甲の着衣及び所持品につき、現物の存しない〈10〉、同種類の多い〈15〉、〈16〉、〈19〉、〈20〉を除き、その余は被告人の所有又は所持であることを認めている。このことは、指紋の一致によつて死体甲が被告人であることを認める認定に、さらに有力な証拠を加えたことになる。ただし前掲の仮説からするならば、死体すりかえの有力な証拠となるとの見解もでてくるであろうが、そうだとしても、指紋の一致を覆すに足りる証拠価値はない。

五、死体甲の身体的特徴

(一)  死体甲と被告人と一致する特徴

1 身長

証1、6、39によれば死体甲の身長は一・六六メートルであり、証12、13によれば被告人の身長も一・六六メートルであるので、完全に一致する。

2 体格と足

前記四の(一)の事実によれば、もし死体甲が被告人と別人だとするならば、死体甲は被告人の下着類からシヤツ、チヨツキ、背広上下にいたるまで着用しており、かつその靴を足に履いていたことになる。そうだとすると、両者の体格の程度と足の大きさは一致するといつてよい。

3 盲腸の手術痕

証1、6、11、39、54、167によれば、死体甲には長さ約四・五センチメートル幅約一センチメートルの盲腸の手術痕があることが認められ、一方証12、13、52によれば、被告人は小学六年生のときに盲腸の手術をしており、その痕はぐちやぐちやしたようなその部分は色がちよつと濃いような感じで非常に後々まで大きく残つていたことが認められる。そうすると右両者の盲腸痕の存在及びその大きさは一致することが推測できる。

4 顔の黒子

イ、証12、13及び証2(これは証人に対する弁護人の尋問の中にでてくる)によれば、被告人には左眼の下約一・五センチメートルの辺りに、大きさが約五ミリメートルはない黒子があることが認められる。

ロ、当裁判所に提出された被告人の写真は次のとおりである。

A 昭和四六年ごろ撮影したもの

〈1〉証78(埴原意見書)の資料(3)

B 昭和四六年七月二六日撮影したもの

a 正面を向いているもの

〈2〉証57(市川鑑定書)添付の写真2の上、〈3〉証179(市川証人提出の顔写真)

b 左横向きのもの

〈4〉証57添付の写真2の下

C 昭和五一年四月一七日撮影のもの

a 正面向きのもの

〈5〉証78の資料(2)―1、〈6〉証57添付の写真1の上、〈7〉証177(市川証人提出の顔写真)

b やや左横向きのもの

〈8〉証78の資料(2)―2、〈9〉証57添付の写真1の下、〈10〉証176(市川証人提出の顔写真)〈11〉証178(同)

ハ、当裁判所に提出された死体甲の顔写真は次のとおりである。

A 証164(符66の3)を引きのばしたもの

〈12〉証78の資料(4)―1、〈13〉証57添付の写真3、〈14〉証180(市川証人提出の顔写真)

B 証164と同じ大きさで右Aと同一場面のもの

〈15〉証53の現場写真第8号

C 当裁判所がネガ(証145)から直接現像したもの

a 右〈15〉と同一場面のもの

〈16〉証164

b 右〈16〉よりやや接近して撮影したもの

〈17〉証166

ニ、被告人の顔の黒子の位置

A 被告人の顔写真〈1〉ないし〈11〉のうち、左顔面の写つていない〈4〉を除き、その余の一〇枚には、前記イの証言と合致する個所に小さな黒子が写つていることが認められる。

B なお〈2〉〈3〉〈5〉ないし〈11〉によれば、下唇の右端の下方顎との間辺りに、明らかに黒子と思われる小さな黒点が認められる。

ホ、死体甲の顔写真〈13〉〈14〉には、市川和義の証言(証14)によれば、黒子とみれないわけではない黒点が、それが黒子とするならば右二Aとほゞ一致する位置に存することが認められる。ただ市川は、その鑑定書にこれを黒子として記載はしていない。それはこの死体甲が非常に腐敗している状態であり、まだほかにも点があるので、これを黒子とみなすかどうかに疑問があつたからであると述べている。市川は、その鑑定に当り、提供された写真(〈2〉〈6〉〈9〉〈13〉)によつたのみであつて、証12、13の証言のような、その位置に黒子が被告人は現に存していたことは、知らなかつたから、考慮に入れていない。又〈6〉と〈7〉、〈9〉と〈10〉〈11〉は同一の写真であるが、いずれも鑑定書添付の〈6〉〈9〉のほうが不鮮明である。市川がその鑑定に際し、〈13〉〈14〉の左眼の下に薄いがはつきり存在する黒点を被告人の右二と完全に一致する黒子と認定するのに躊躇したことは、その段階の判定としてはやむを得なかつたものと思われる。しかしながらこの黒点は〈16〉〈17〉にも明瞭に認められるものである。

弁護人は、写真にこのような点が写るのは、黒子、死体のよごれ、写真の銀粒子の場合だとその市川に対する質問の中で述べているが、〈13〉ないし〈17〉の五枚には、すべて右二Aとほゞ一致する個所に黒点が写つていることが認められるのであるから(〈12〉は〈13〉ないし〈16〉と同一の写真であるが、ネガからではなくて写真からの複写のように思われる。〈13〉ないし〈16〉に比べて粒子が荒く、二Aにほゞ相当する位置の黒点は、そこに存在することを意識して見なければ見おとしてもやむを得ないほど薄い黒点である。しかし意識して凝視するならば、明らかにその位置に黒点の存在することを認めることができる。埴原意見書は死体甲についてはこの〈12〉のみによつて意見を立論していることに注意する要がある)、まず、写真の銀粒子でないことは明らかである。又〈13〉〈14〉からするならば、死体のよごれとも思えない。あるいは〈13〉ないし〈17〉の写真のみを見せられて、その背景を知らず又被告人の写真も見ないとしたら、この黒点を死体のよごれと見ることもやむを得ないかもしれない。市川は、「同じような点が顔面いたるところにあるので、これだけを黒子といえるかとなると比較的にむつかしい、黒子とか傷とかは、はつきりわからない以上は、あまりうたわない」と証言して、鑑定書に書かなかつた理由を敷衍している。

しかしながら、すでに詳細に説示したように、死体甲と被告人の指紋は一致していて、死体甲と被告人は同一人であることに鑑みるならば、被告人の写真に明瞭に存する黒子の位置とほゞ同位置に(死体甲は腐敗している死体であつて、かつ眼を閉じている状態であるから、眼を開いている被告人の状態とやや異るから、写真上の位置に多少の差異が生じてもおかしくはない)、死体甲の写真に黒点が写ることは至極当然のことである。写つていなければかえつておかしいことになるのである。この黒点が写つていることは、正に死体甲が被告人と同一の特徴を有することの証左となるものである。被告人の写真の黒点が黒子であるならば、死体甲のこの黒点も亦黒子であると認めて差支えないというべきである。この場合市川が躊躇するところの同じような点が顔面いたるところにあるということは、右認定の妨げとなるものではない。なぜならば、被告人の顔に存在する黒子(写真上の黒点)が死体甲の写真上に認められないときは、被告人に存する特徴が死体甲に存在しないことになり、反証となるものであるが、被告人の顔写真にない黒点が死体甲に存していたとしても、死体甲は証1、2、4ないし6、39、53、149ないし175から明らかなように、水死体であり、それは顔面を含めヌルで汚れていたもので、それを水洗いしたものの、顔面は腐敗していて、表皮が剥離していた状態であつたのであるから、それこそ汚れがあると推測されるからである。

ヘ、同様に〈13〉ないし〈17〉(〈12〉は、前ホの二Aの黒点と同じように、その意識をもつて見れば認めることができる程度に薄いが、認めることは十分にできる)には、二Bとほゞ同じ位置に黒点が写つているのを認めることができる。この黒点の存在の一致(証12、13では、この黒点について言及してはいないが、〈7〉〈10〉〈13〉において見られる二Aの黒子とこれとの写真上の対比からするならば、これも亦黒子と見ることができる)は、右二Aについてホにおいて説示したと同様に、死体甲が被告人と同一の特徴を有することの証左となるといわなければならない。

ト、以上認めた各事実からするならば、死体甲の顔面には被告人の顔とほゞ同一の位置に黒子と認められる黒点が二個存在することが認められる。そして市川の証言(証14)からも認められるように、黒子が一致することは、同一人物の識別上割合い確定的になり得る固有の特徴であることに十分に注意すべきである。

(二)  市川鑑定書と埴原意見書について

1 市川鑑定書(証57)

市川和義は、科学警察研究所の警察庁技官であるが、前記(一)の4のロのうち、〈2〉、〈6〉、〈9〉、〈13〉をもつて死体甲と被告人の同一性の有無を鑑定し、その結論として、そのそれぞれの写真上、右両者が「同一人であると考えても、ほゞ差し支えないものと考えられる」との見解をとつており、市川の証言によれば、その確率は右写真上では、約七〇パーセントであると供述している。すなわち、死体甲はその顔写真のみからもつてしても被告人と約七〇パーセントの確率をもつて似ていると認めているのである(なおこの確率の中には、前述の二個の黒点((黒子))の位置的一致については含まれてはいない)。

2 埴原意見書(証78)

イ、埴原和郎は、東京大学理学部人類学教室の教授であつて、前記市川鑑定書(同教授が資料としたこの鑑定書に、〈2〉〈6〉〈9〉〈13〉と同一の写真は、その証言から添付されていなかつたことが認められる)と前掲〈1〉〈5〉〈8〉〈12〉の写真をもつて、死体甲と被告人の同一性を鑑定し、市川鑑定書の認定方法に疑問を提し、かつ〈A〉額の毛際、〈B〉黒子(これについては次に述べる)、〈C〉耳の大きさ、〈D〉眉毛、〈E〉もみあげの五点について新に不一致の疑問を提しながら、その結論は、市川鑑定書の特徴として掲記しているところは「現代日本人男性の多くに共通する特徴であつて、特異な点は見当らない。したがつてそれらの一部を共通するからといつて、同一個人であろうという結論は導き難い」としつつも、反面「資料(2)(これは前記〈5〉〈8〉に当る)および(3)(前掲〈1〉)が、資料(4)(前掲〈12〉)とが、まつたく他人であるとの証明も困難である。したがつて、積極的に個体が異るという証明も困難である」との結論も出しているのである。埴原は証言(証15)では、要するに五分五分である趣旨のことを述べており、この意見書からも同一人であるかどうかの確率は五〇パーセントである、との見解をとつていることが認められる。

この意見書で注意すべきことは、右〈A〉ないし〈E〉について疑問(この疑問は〈B〉を除き、弁護人からも、又証12、13、18の証言においても繰り返し述べられてきたことがらである)を新にあえて提示しながらも、埴原の見解は、同一人でないとの否定的な確率が、同一人であるとの確率よりも高いとは決していつていないのである。したがつてこの意見書の見解をもつて、死体甲は被告人と別人であるとの反証とすることはできないといわなければならない。

ロ、なお埴原意見書の弱点は、肝心の死体甲の顔写真について粒子の荒い複写写真〈12〉を使つたことにあると思われる。前記五の(一)の4のホで説示したように、この〈12〉と〈13〉ないし〈16〉は全く同一の写真であるが、その〈13〉ないし〈16〉には、意見書が指摘する「左眼外眼角の下方」に黒子と認められる黒点が写つていることが認められるのである。ただし〈12〉の写真では、その意識をもつて凝視しなければ、それとは認め難い程薄い黒点である。しかし写つていることは確かであるから、もし埴原においてこの黒点を認識することのできる写真をもつてしたならばどうであろうか。この点について埴原に対する尋問において、弁護人は、前掲〈3〉〈7〉〈10〉〈11〉〈14〉の写真を一括呈示し、特に意見書の意見を変更するところはないかと問うたのに対し、埴原は「見当りません。ないと思います」と答えている。しかしこれは一般論的総括的結論の問答であつて、このことをもつて、黒子に相当する黒点の存在が認められる場合でも「見当らない」との見解を維持するものとは直には言えない。弁護人は〈A〉、〈C〉、〈D〉、〈E〉についてはさらに詳しく尋問しているが、〈B〉については言及していない(もつとも裁判所も補充尋問をしていない)。黒子の点については埴原の証言からではなんとも言えない。又右の写真を呈示されたとき、左眼下の黒点について気付いた上で前記の答えをしたかどうか不明である。少くとも黒子に相当する黒点が認められるならば、その意見書の記載内容からして、その結論が異るであろうということは、黒子の一致による同一性認定の重要性からみて、十分推測できるところである。

3 以上の諸点からするならば、死体甲の写真について、〈A〉、〈C〉、〈D〉、〈E〉の点については、これを論じてみても、死体甲が被告人ではないことの証拠となる点を見い出すことはできないことが認められる。かつ、黒子の点を除いても、死体甲の顔相は、被告人の顔相と別人であるとは認められないということができる。

(三)  仮説(第三、三、(五)、2)の崩壊

1 当裁判所は、あえて前記のような仮説を立ててみた。そしてその仮説に立つ推論からするならば、安達と筒井は一月六日午後江戸川で死体甲の検死をする以前に、すでに死んでいるはずの被告人を見て、それからシリコンラバーによつて一六個の指紋の型を採取していなければならないはずであつた。

2 しかし右両名は、市川警察署刑事課鑑識係のたんなる巡査にすぎないから、仮説のような大事を右両名の自己判断で実行することは、その地位からいつても組織上の仕組から見ても全く不可能であろう。当然その上司(田丸、加瀬)、又死体甲の検死に当ることになつている(この段階ですでにすり替えられていることになる)同僚の警察官も、それらのことを知つているとともに、死体甲を被告人に擬するためには、死体甲の検死に当つて、その認識できる身体的特徴として調書に記載さるべき事項は、死体甲の特徴ではなく、正にすでに死んでいるはずの被告人の特徴でなければならないことも亦、皆の認識内容となつていなければならないはずであつた。

3 かつ被告人のその身体的な特徴は、被告人がすでに死んでいるならば、綿密にこれを見分し、誤りなくその特徴を、死体甲の特徴として死体見分調書に記載することは可能であつたはずである。かつ被告人との同一性を認めることができる特徴となる事項に遺漏があつてはならないはずである。指紋をすり替える程の大事件(この仮説が真実ならば、正に由々しき大事件ということになろう)であるならば、その身体的特徴をすり替えることなどは当然のこととして、その衝にあたる者は考慮して一切の資料を作成するであろう。そのことを前提にして一月六日午後の死体甲の検死を仮説に立つて検討してみることにする。

4 最も象徴的な点は、被告人の左眼尻下の黒子である。その母も弟もその存在を知つており、かつ被疑者として撮影された二回の顔写真にも明らかに写つており、そして何よりも右仮説に立つならば、死んだ被告人の顔を見る機会が、右検死に当つた連中には十分にあつたはずであるから、当然その存在を認識していたはずである。そして黒子の存在の一致は、人物の同一性の認定の重要な要素であることは、それらの職務に従事している者にとつては、公知の事柄であるから、もし死体甲を被告人と見せるための死体見分調書や変死体発見報告書を作成するならば、死体甲の左眼尻下の位置に黒子を発見できなくても、そのことを被告人の特徴と一致させるために、当然記載するであろう。

ところが、現実の変死体発見報告書(証39)や死体見分調書(証54)にはその記載はなく、伊藤総明(証32)伊藤康正(証37)の供述調書では、痣や黒子は確認できずと記載されていてむしろ否定的であるし、田丸(証2)、加瀬(証1)、伊藤総明(証6)の証言では、肉眼で見えるような大きな黒子はよく調べたが、小さなものは見つけることはできなかつたし、見当らなかつたと述べている、しかしながらすでに詳細に説示したように、死体甲の顔写真には、被告人の前記黒子の位置とほゞ一致する位置に黒点が写つているのである。(当裁判所はこれを黒子と認めることができるとする点については前述のとおり)。右仮説に立つならばこのことは誠に奇妙なことになる。仮説に立つならば、その位置に発見できなくても被告人とみせかけるためにあえて右書類などに記載して然るべき黒子を、実際に検死にあたつた者が見付けることができず、ただ写真がそれを捕捉しているのである(実際にも死体甲に存在しないものであるならば、写真に写るはずはない。写真に写つておつて検死した連中が見付けることができなかつたということは、単純な見落しにほかならない)。

しかしながら被告人の左眼尻下の黒子は、いかにも小さい。その母弟の証言によれば五ミリメートルにも満たないものである。だからその生前の顔か、あるいはそれに近い時期の綺麗な顔か、又は写真などを熟視して、その存在を予め認識していないと、腐敗して表皮がところどころ剥離しているような顔面を見ても、見付けることができず、見落したとしても不思議ではないものである。

以上のことからするならば、今まで立てていた仮説は大きく崩れざるを得ない。死体甲の検死に当つた連中(田丸、加瀬、伊藤総明、伊藤康正、安達、筒井ら)は、右死体甲の検死に際しては、被告人の存在も、その顔も、身体的特徴(この点後述)も知らなかつたが故に、その同一性の認定に重要な黒子を見落してしまつた。しかし写真は機械であるため、撮影者の認識いかんにかかわらず、被写体を正確に把握していた。指紋の照合によつて死体甲が被告人と同一人であると判明した後は、このような小さな黒子のことは右連中にはあえて追究の必要はなかつた。しかし市川は死体甲が被告人と同一人であるならば、被告人の顔に特徴的に存する黒子が、死体甲にも同じ位置に存在するはずであるとの観点から、死体甲の顔写真を再検討したところ、左眼尻の下と、下唇右端の下顎との間に、被告人の黒子とほゞ同位置に黒点が写つていることを認識した。だが市川は顔写真のみによる鑑定であるために、あえてこの二黒点を黒子とは断定しなかつたものである。このように解することのほうが極めて自然であり、合理的である。右の連中は、被告人を知らず、それについての認識がないからこそ、このような見落しをしてしまつたといえるのである。このような右市川警察署の連中の行動に徴するならば、死体甲が被告人の死体の身代りであると解することは到底できない。

5 次に被告人の母弟の証言によれば、被告人には頭頂部やや左前部に長さ約三センチメートル、幅約二、三ミリメートルの禿があつたこと、又左右いずれか不明であるが、脛に旧五十円硬貨位の大きさの、色は皮膚の色と変らないが、少し凹んでいて中がつるりとして皮が張つている感じの火傷の痕があつたことが認められる。しかし市川警察署で作成された各種調書類(証39、41、43、53、54、59)のどれにも、右の禿と火傷については記載されていない。これらも同一性を判断するに当つては、特徴となるものであるから、右仮説に立つならば、死体甲に存在すると否とにかかわらず、その特徴として記載されて然るべき事項である。それが記載されてないことは、前記4の後半で説示したように、この当時被告人にそのような特徴のあること知らず、かつ死体甲からは発見できなかつたためであると解される。もつとも頭部の毛髪は極めて抜けやすくなつているのに、右禿は細長くその幅は僅か約二、三ミリメートルであり、又左右の下肢はところどころ表皮剥離していて、かつ腐敗しており、ふやけて赤むけの状態を呈しているところもあつたのに対して、右火傷の痕が前記のようなものであつてみれば、右禿と火傷の痕を発見できなかつたとしてもやむを得ないところである。その記載がないことをもつて、死体甲が被告人でないことの証左となるものではない。

6 なお、被告人の死体が死体甲にすりかえられたとする仮説にあえて立つとする。被告人が失踪したのは、証18によれば昭和五一年一一月二一日であり、死体甲の死亡は証40によれば遅くとも昭和五二年一月一日ごろと推定されている。この約四三日間位の間に、被告人と同じ年恰好で、身長が全く同じであり、かつその衣服下着類一切を無理なく着用することができ、足の大きさもほゞ同じであるうえに、その左眼尻の下と下唇右端の下で顎との中間に被告人と同じ黒子様のものを持つており、さらに盲腸の手術の痕もあり、なおそのうえに、その顔相が被告人と一見して異る点を持たない誰かを探し出してきて、死体甲のような状態におくことが、現代の社会で果して実現可能なことであろうか。このようなことは至難の業というほかはない。

7 当裁判所は、死体甲は被告人とすりかえられたとする仮説には、到底左袒することはできない。

六、歯の治療痕

(一)  死体甲における歯の治療痕

1 証1、2、4、6、32、34、39、43の各証拠によれば、死体甲の歯の治療痕について次の事実が認められる。

〈a〉上の左1、2番と右1、2番は、裏打帯状の金ブリツジで、四本つながつている。ただし前から見ても金の部分は見えない。〈b〉上の左3、4番、右3番は金冠、この左右の3番がそれぞれ左右の2番につながつていたかどうかは不明、〈C〉上の右7番は、治療のためブリツジ、材質不明、6番と8番の状況不明、〈d〉上の左6番はサンプラ冠、〈e〉下の左5、6、7、8番サンプラ冠、8番は上だけ冠ぶつている程度、〈F〉抜けつぱなしの歯はない、〈g〉充填痕のようなものは見当らない。

2 又、大谷が作成した身元不明死体票(証59)は、大谷が死体甲の検死現場に行つて確認したものではなく(大谷が臨場していないことについてとくに証11、16)、伊藤総明から聞いてメモしたものによつて後日作成されたものであつて、第二次的な事実の記載であるから、第一次的に伊藤総明によつて一月六日夜作成されている変死体発見報告書(証39)と記載が異る点は証59の方が証明力がないと言うべきである。なお大谷に対する証人調の経過に徴するならば、右作成の当時同人はサンプラ冠とプラチナ冠の異同を知らなかつたと思われる。

(二)  相医師の被告人の歯の治療

1 証9、38、75によれば、相は昭和四五年八月二八日から同年一〇月一六日の間一八回に亘り、被告人の歯の治療をしており、その内容は、〈a〉上の左1番右1、2番を抜歯(そのまゝ)、〈b〉上の右6番銀充填、〈c〉上の左5番銀充填、〈d〉上下の右8番抗生物質投与の治療であつたことが認められる。

2 相は本件の事実の調査を開始した当時は、被告人のカルテを所持しており、弁護人が相の承諾を得てそれを筆写している(証75)。かつそのメモがカルテと同一内容であることは相も認めるところである。しかし、理由はともかく右カルテは当裁判所には提出されていない。

(三)  大場けいすけ医師の被告人の歯の治療

1 被告人の母水本よ志の証言(証12)によれば、相医師のところで治療してから約一週間の後、鶯谷の大場けいすけ医師のところで被告人は治療を受けた。その内容は〈a〉前歯の三本抜歯したところに義歯を三本入れ、両側の歯(支台歯)とブリツジにした。この義歯は金の裏打ちがされていて、表から見ると金はわからない。〈b〉両側の支台歯は額縁より薄いが両脇は一寸前に出ており、はすになると、うつすら見える程度の金であつた。〈c〉ほかの歯は治療していない、ことが窺われる。

2 この治療については、その当事者の医師ではなく、かつカルテも提出されていないので、その証明力は高いとはいえない。

(四)  大崎義一医師の被告人の歯の治療

1 大崎の「私の記憶と所見」(証73)によれば、大崎は昭和五一年二月ないし三月のころ、四、五回に亘つて被告人の歯の治療をしたこと、カルテなどの歯科診療録は記載していないこと、そこでその記憶によれば、〈a〉その前歯ブリツジは、金裏装レジン前装であつて、右上2番から左上3番までか、もしくは左上2番から右上3番までブリツジのいずれかであつたこと、〈b〉その一部分が脱落していたので応急措置としてコンポジツトレジンによつて修復したこと、〈c〉臼歯部の一本にアマルガム充填をしたこと、〈d〉左下6番辺りの抜歯処置をしたこと、〈e〉金冠は一本もなかつたこと、〈f〉プラチナ冠、サンプラ冠も一本もなかつたこと、〈g〉それ以前に充填処置されたと思われる複数本があつたこと、がそれぞれ窺われる。

2 大崎の証言(証17)によれば、〈a〉前歯三本は義歯であり、金裏装とは裏側は全部金であること、それにレジンをはりつけた型になつていること、〈b〉両側の支台歯は天然歯であつて、金の四分の三冠であり、表から見ると支台歯をぐるりと額縁のように取囲んでいる型になつて、それが見えること、〈c〉右の義歯は歯肉にくつついていたこと、〈d〉臼歯部の先填はどこか憶えていないこと、〈e〉左下6番辺りの抜歯のあと両側を支台歯として金パラジユームのブリツジにした記憶があること(抜きつぱなしにすることはないので)、〈f〉他に充填のある歯が五本位あつたこと、はがれそうになつていたので〈d〉のようにやり直したこと、〈g〉サンプラ冠もプラチナ冠も一本もなかつたこと、〈i〉左上6、7、8番にブリツジはなかつたこと、がそれぞれ窺われる。

3 大崎の右1、2の弱点は、カルテなどの診療録によらず記憶のみで述べていることである。大崎はカルテを書かなかつた理由を述べているが、その証言の豊富さからするならば、あるいはなんらかの参考資料があるのではないかとの感がしないでもない。しかしながら、その記憶によるところをもつてしても右1と2においては、大きな差がある。すなわち、2の〈b〉、〈e〉の二点である。このことは(一)との対比について重要なことがらであるのに、その記憶が新しいと思われる1の証73には記載されていない。その意味において右大崎の証73、証17には信用性に欠ける点が認められる。

(五)  死体甲の歯の治療痕と右(二)ないし(四)との関係

1 右(一)と(二)においては、(一)の1の〈d〉と(二)の〈c〉との相異を除き異るところがない。(二)の1の〈b〉は(一)の1の〈c〉と矛盾しない、ブリツジならば右上6番にもなんらかの治療が施されていたことが推測できるからである。(一)の1の〈d〉は安達の5番との見ちがえであろう。ことさらに別人の基礎となる程の大きな差異ではない。

2 (三)ないし(四)の前歯について

イ、先ず(三)の1の〈a〉は、前歯のブリツジは右上2、1、左上1の三本に対してその両側の右3番、左2番が支台歯の趣旨であろう。なぜならば(二)の1の〈a〉のように右上2番はすでに抜歯されていて、支台歯となることは不可能だからである。ところで大崎は前歯の支台歯は天然歯を二本続けてすることがある旨を述べているところからするならば、左上3番が支台歯であつたとしても不思議ではない。

ロ、ところで大崎は証73では記載していないのに証17で証言したこととして、右前歯の支台歯は細い額縁のような金であると述べている。かつそれは表から金枠が見える状況にある。唇の動きによつては金冠とも見誤られるであろう。なお支台歯が中三本もの義歯を支えるのに細い額縁程度の金枠(裏がベタ金だとしても)で済むであろうか、甚だ疑問である。

ハ、又、母よ志の証言によれば、被告人は先輩(大崎を指す)に前歯のはがれたのを直してもらつたが、又すぐはがれたと述べていたことが認められるが、その時期は昭和五一年三月四月ごろということになろう。一方右証言及び証18によれば、被告人はその失踪前には前歯に欠けた部分はなかつたことが認められる。そうだとすれば大崎から(四)の時期に治療を受けた後、その失踪までに、最低一度はどこかの歯科医に前歯の治療を受けていることが推測される。したがつて被告人の失踪時の前歯の治療痕の状況は、必らずしも右(四)のとおりであつたかについては断言できないといわなければならない。

ニ、右イないしハの各事実からするならば、(四)の被告人の前歯の治療痕の状況をもつて、(一)の死体甲の治療痕に対する別人のものであるとする反証とはなりえない。かえつて、右(四)の前歯の状況は、その後他者によつてもう一度治療されたことをも加味し、かつロの疑問も合せ考慮するならば、極めて酷似しているということができる。

3 (四)の左下の奥歯について

イ、(四)の2の〈e〉は(四)の1にはなかつた事柄である。この左下の5、6、7番の金パラジユームによるブリツジは、(一)の1の〈e〉と酷似している。金パラジユームを冠せた歯と、サンプラを冠せた歯とは一見して区別がつかないものであり、むしろ証31によればそれをも含めてサンプラと称するとさえいわれていることが認められるからである。大崎はブリツジと、それぞれを冠せた場合とは一見してその違いがわかると言うが、上から見分するならばほとんど区別がつかないことが認められるから、専門医でない安達が見誤つたとしても不思議ではない(もつとも(四)の2の〈e〉が真実とした場合であるが)。

ロ、又(四)の2の〈d〉は、もしその臼歯が左下8番であるならば(大崎の証言をこのように解することは可能である)、(一)の1の〈e〉の左下8番と一致する。

ハ、右イ、ロからするならば、(四)の左下奥歯四本の治療痕は、(一)のそれと極めて酷似しているということができる。

4 (四)の右上奥歯について

(四)では右上6、7、8番にブリツジはなかつたというが、同6番をどのように見たかは不明である。この6番は、(二)の1の〈b〉によれば銀充填がされていた歯である。そうだとすればこの6番を含め7、8番(この8番も相のところでは治療を受けていた歯である)に、治療痕があつたとしても、それから約六年有余を経た昭和五一年一二月ごろその部分に(一)の1の〈c〉のような6、7、8番にまたがるブリツジ(治療中ではあるが)が在つたとしても少しも不自然ではない。したがつて右(三)の2の〈i〉は(一)の2の〈c〉に対する反証とするわけにはいかない。

5 その余の歯について

(三)の2の〈b〉と(一)の1の〈g〉は、充填痕のある歯の有無につき相反している。しかし大崎の五本位という証言は、(三)の1の〈g〉では複数本と記載されているものの発展である。なぜ五本位と本数が明言できたのか疑いなきを得ない。またそれが記憶のみに基づくものである以上、(一)の右〈g〉の正否を判断する根拠を欠いているといわざるを得ない。安達にも見おとしがあるかもしれないが、右大崎の証言をすべて正しいとすることはできない。それからするならばこの相異をもつて、死体甲が被告人と別人であることの反証となると解する必要はない。

(六)、判断

以上(一)ないし(五)において説示したことを綜合するならば、弁護人が証17及び証

73の大崎の証言及び記載をもつてするところの、死体甲と被告人の歯の治療痕は異るから死体甲と被告人とは別人であるとの主張は、採用することは到底できない。むしろ右大崎の証言による歯の治療痕の状況は、一部信用できない部分があるにしても、その後の経過も加味して勘案するならば、死体甲の(一)に述べた歯の治療痕と酷似しているということができるのであるから、死体甲は被告人と同一人であることの証左にさえなるといつても差支えないものである。

ここであえて再び前掲の仮説について言及する。死体甲が被告人の死体とすり替えられたとの仮説をさらに維持するならば、すでに五の(三)において詳細に説示したところに増し加えて、これ程までに酷似した歯の治療痕を持つている青年を獲得しなければならないことになろう。これは至難以上の業であるというほかはない。この仮説は到底成りたたないのである。

七、結論

以上一ないし六において詳細に説示した各事実及び判断を綜合して、昭和五二年一月六日午後前記江戸川から引き上げられた水死体甲は、被告人であると断定する。弁護人の第二の二の主張は採用しない。

よつて、刑事訴訟法三三九条一項四号により、主文のように決定する。

(別紙は省略する。)

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